本日(2022/2/17) の Privacy by Design Cafe では日本人にとってのプライバシーについて考えさせられました。
個人情報保護法に比べてプライバシーは個人情報保護に留まらない人権に基づく考え方だと思います。
そこで、プライバシーの起源は諸説ありますが、その一つとして19世紀頃の欧米でright to be let alone「一人で放っておいてもらう権利」としてマス・メディアによる暴露などから守るために叫ばれ市民の声によって形成された歴史があります。
一方で、日本は先立つOECDに倣って2003年に「個人情報の保護に関する法律」が成立しましたが、日本人が持つ価値観や市民の人権意識から生まれたものではないと思います。よって、国民も企業も当事者意識がないため、法律に対して無関心で対応も後手に回る弊害が見られます。
そこから、明治24年に「民法典論争」を巡って憲法学者の穂積八束 氏の発表した「民法出て忠孝亡ぶ」の思想について、話が及びます。
・・・穂積によれば極端な個人本位の民法は「忠孝の国風」と相容れないものとして、民法を輸入することは、家制の破壊をもたらし、家制がなくなれば「孝道」もなくなると述べました。
もはや欧米が作った「Privacy」ではなく日本人の価値観に基づく憲法第13条の幸福追求権から紐解いて市民と専門家が作り上げるべきだと感じます。例えば欧米の価値観が「right to be let alone」であるならば、日本は「和を以って貴しと爲し」かもしれません。
これは仮説ですが・・・日本人は個人でいることより、集団に依存していると思います。つまり町や村、会社などの「集団の和」といったものがあります。例えば「回覧板」では町内や社内の個人的な出来事が共有され、手伝ったり祝ったり弔うこともあります。教師は生徒の家庭の事情まで把握して、時には相談に乗り支えることも必要です。
よって個人という括りで分断するより、「集団の和」を考慮した特定の集団で括り共有する仕組みが必要だと感じました。